rush
街が緑と赤と陽気なメロディに染まる中。
私は先を急いでいた。
時計の針は、19時よりほんの少しだけ左側に傾いている。
多少遅れたとしても、彼は何も言いはしないだろうけれど。
早くしないと。あのひとはもう、着いているに違いない。
どんな日だって、彼が私より後に学校にくることは、まずない。いつだって、誰より先に職員室へ出勤して。何も言わずに環境を整えてくれる。
それが、事務職員としての仕事だと言ったらそれまでになってしまうけれど。
私がこの中学校に赴任してきてから8ヶ月の間、一度だって職員室内で暑さや寒さを感じたことはない。
喫煙スペースの灰皿に、吸殻が溜まったことはない。
彼――
もっとも。
眉間に深く皺の寄った仏頂面とぶっきらぼうな物言いと――生徒の目の前で「餓鬼は嫌いだ」と公言している――のせいで、なかなか人にはその気配りが届かない、損な性分のひとだけど。
信号が赤に煌く少しの間。磨き上げられたショーウインドウに自分の姿を映してみる。
(ちょっと、この口紅赤すぎたかしら?)
一昨日買ったばかりのワンピース――裾を縁取る黒レースが甘すぎず、一目惚れをして購入した――には、鮮やかな赤が合うと思ったのだけど。今見てみると少し、派手な気がしてしまう。
そんなことに気を取られているうちに、信号は青に変わる。
反射的に、早足で交差点を渡った。
どうでもよいことに気を巡らせてしまうのは、恋を知ったばかりの10代の少女のようで。
思わず口に苦笑が浮かぶのが分かった。
19時を少しだけ通り越して。私は目的地のビジネスホテルのレストランに辿り着いた。
どちらかといえば、寂れた、素朴なところだけれど。ここのビーフストロガノフの飾り気のない味が、私にはとても気に入っている。
あたりを見回すと、私と同年代の――20代後半から30代ほどの恋人同士が多かった。
その中に、ひときわ高い上背とひょろりとしたシルエットの清水さんを見つけ、私は彼に駆け寄る。
「ごめんなさいね。遅れてしまって」
「別に。退屈はしなかったから。気にすることはない。
口元に薄く笑みを浮かべる彼の対面に腰掛ける。
彼の前には、既にワインが置いてあって。なるほど、退屈はしていないようだ。
すぐに、彼は薄いワイングラスに並々と紅い液体を注ぎ込んでくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ワイン自体は安物だったけれど。喉を焦がす感覚は、嫌いじゃない。
それに。私と清水さんにとって、お酒は質よりも量、だから。
ほんの5日前。12月19日の忘年会の日まで。
彼とプライベートで逢うような仲になるとは思ってもみなかった。それはきっと、清水さんの方も同じだと思うけれど。
それまで、私と彼は時々帰りの地下鉄で一緒になって言葉を交わす程度の仲で、勤め先の学校内ではプライベートの会話なんて全くしたこともなかった。
先生方が皆、酔っ払って騒いでいる中。どんなに飲んでも酔えない私は、冷めた気持ちで彼らを見ていた。
本当に、これが教育者であっていいのかしら?
別に教職に夢を抱いてこの職についたのではなかったけれど。そんな私ですら抱いた疑問だ。
うんざりして宴の終焉を待つ中。ふと、清水さんと目が合った。
彼の前には誰よりも多い、酒瓶やジョッキが並んでいたけれど。瞳に宿る色は、正気そのものだった。
もともと、少し私に似たところのあるひとだとは思っていたけれど。
その瞬間、彼と心を共有したような幻覚に襲われた。
どちらからともなく、2人で会場を抜け出し静かに、気が済むまでお酒を飲んで。その後は、まあ。27の女と33の男として、順当な展開が訪れた。
彼と対面して、再びお酒を酌み交わしながら。クリスマス料理に舌鼓を打つ。
傍目から見たら、私たちも幸せな恋人同士に見えるのかしら。考えると不思議な気がした。
「だけどいいのかしら?」
「何が?」
「今日はクリスマスイブでしょう?」
「そうだな」
「こんなところにいて、いいの?」
意地悪な問いかけをしながら。私はしきりに、彼の左手の薬指に光る銀のリングを見ていた。
「君が、それをいうのかい?」
清水さんは私を試すように問いかける。
何も、言うことはできなかった。かわりににこりと微笑んでみせる。
「家族サービスは25日だけで十分」
淡々と言ってのけた。
彼には奥さんがいる。子供もいる。
それは、こうなる前から知っていたこと。
私と会っている間でも、決して指輪は外さずに、「妻とは別れる」なんて陳腐な台詞は言わない。
むしろ、奥さんと子供さんのことをよく話してくれる。嬉しそうにでもなく、淡々と。
だからこそ、私は彼の傍にいた。
もしも、奥さんの存在を隠そうとするようなひとなら、きっとひかれたりなんかしなかった。
「明日は息子を遊園地に連れて行く羽目になった。だから、今日くらいゆっくりしたって罰は当たらないさ。……全く、子供ってのは、どうしてああも面倒なものが好きなんだろうね」
「私も、……あの雰囲気は苦手」
「だと思ったよ。君と僕はよく似ているから」
頭がくらくらとした。お酒に酔ってしまったわけではないのは、よくわかっていたけれど。私は完全に、彼の毒にやられてしまったようだ。
彼が私に向ける感情は、女性にむける思慕とはかけ離れていて。どここまでも「同志」に向けられるものだったけれど。
たった5日間の彼との関係が、私にとってどんどんと重い意味を持ち始めたことに、気付かずにはいられなかった。
俯く私に、不意に彼は声を上げる。
「忘れるところだった」
椅子にかけていたロングコートのポケットから、手のひら大の薄い直方体のものを無造作にとり出した。
「何、コレ?」
「真理さんへのクリスマスプレゼント」
紅色のパッケージに『rush』と金色のロゴのついたシンプルな箱の上から、深緑のリボンが巻いてあるだけの簡単な包装のものだった。
「……何、これ?」
「香水だよ」
清水さんは言ったけれど。シンプルすぎる、厚めのカードケースのようなそれは、とても香水のボトルには見えなかった。
私は香りを身につけないから、偏見かもしれないけれど。香水の壜といって思い浮かぶのは透明で煌びやかなものだったから。
「ふうん、清水さんって香水に詳しいんだ」
意外に思い呟くと、清水さんは肩をすくめて見せる。
「まさか。買ったのははじめてだ。妻にだって、贈ったことはないよ」
だったらどうして? たずねる前に、彼は言葉を続けた。
「店頭でこの香りを嗅いだ時、君の顔を思い出した。だから」
言葉は、出てこなかった。
ただただ、喉に想いがせき止められ、熱を帯びる。
ああ。
このひとはどうして。こんなにも私の心をいともたやすく捕らえてしまうのだろう。
ずっと一緒にいられたらなんて、本気で思えるほど、無知でも子供でもないつもり。
それでも、願わずには居られなかった。
――どうか、今日一日だけでいいから、清水さんとずっと一緒に過ごせますように。
そのとき。清水さんの携帯電話が鳴りだした。着メロは使っていないそのままのベルの音が、彼らしく思える。
彼は席を立つでもなく、その場で電話に出る。
「もしもし――ああ、お前か。どうした?」
清水さんの声が、温もりをもったものに変わる。ほんの少しの変化だったけれど。気付いてしまった。
電話の相手は、恐らく奥さんか、子供さんなんだろう、と。
受話器から、幼い、舌たらずな声が、漏れる。
パパ、早く帰って来てよ。
ママがね、ケーキ作ってくれたんだ。ぼくもねー、サンタさん上に乗せたんだよー。
男の子の声の後ろから、くすくすと可愛らしいソプラノの笑い声が響く。
「明日、遊園地に行く約束しただろ? 今日は予定が入ってるんだ。我慢しなさい」
言って、彼は電話を切った。
「……全く、面倒くさい奴だ」
言いながらも。清水さんの目の奥は優しい色を帯びている。
私には決して向けられない暖かな色に、愕然とした。
私は、彼にとって。一体、どんな存在なんだろう?
「さて、と。……そろそろ、上の階に行くか」
それが、部屋を取ってあるという誘いだとはわかっていたけれど。
「行かない」
自然と言葉が出ていた。
清水さんは驚いたように私の顔を凝視する。
「……行けない。清水さん、家に帰りましょう」
「どういう……」
「貴方の家と、私の家は、別の場所にあるの。帰るべき場所が違うの。……だから、元あるべき場所に戻るべきだと思うの」
それだけで、彼は私が言いたいことを汲み取ったようだった。
「わかった」
彼はコートを羽織り、フロントへと歩き出した。私のことは振り返らずに。
「また、新学期に学校で逢いましょう、
淡々とした口調で、言った。
家に着いて。真っ先に服を脱いだ。
ストッキングも、ワンピースも乱暴に脱ぎ捨てて、下着姿になる。
すぐにメイクを落とした。
そうやってマスカラも、ファンデーションも、剥げる心配がなくなってから。
ひとり、声を押し殺して泣いた。
ううん、泣こうとした。けれど、涙は出てこなかった。
不意に、清水さんから貰った香水を、バッグからとりだして。
空中に一押し、散布させる。
ハッと目が覚めるような、心を捉える甘い香りを嗅いで。
私はあのひとを想い出す。
彼はこの香りを嗅いで、私を思いだしたと言ったけれど。
私にとっては、彼の存在そのものの香りがした。
右目から一筋だけ、頬を伝い涙が零れ落ちる。
私は目を閉じた。
目蓋の裏に浮かぶのは、清水さんのことばかり。
あのひとの残り香を感じる中で。
私は、彼の香りをクローゼットの一番奥へとしまい込んだ。
≪rush≫GUCCI
加速するビート、サイケな色の洪水、アドレナリンの放出などをコンセプトとする、
燃え上がる赤い香り「ラッシュ」。
挑発的で、刺激的な、妙薬のように心を虜にする香り。
ミドル以降に香る、ガーデニアの甘みが印象的。
日本での定価は50ml 9500円、30ml 6500円
『一目惚れの瞬間』をイメージして作られたという。
※こちらはクリスマスフリー小説でしたが、現在は配布は終了しております。
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